渋沢栄一の著書から読み解く明治維新と日本の近代化|『徳川慶喜公伝』が伝えた歴史
新一万円札の肖像として、あらためて注目されている深谷市出身の実業家・渋沢栄一。
「日本資本主義の父」として知られる渋沢栄一ですが、企業の設立や社会事業だけでなく、歴史を後世に残す仕事にも力を注いでいました。
その代表的な成果が、江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の生涯をまとめた『徳川慶喜公伝』です。
この記事では、『徳川慶喜公伝』を通して、渋沢栄一が明治維新と日本の近代化をどのように捉えていたのかを紹介します。
『徳川慶喜公伝』とは
『徳川慶喜公伝』は、渋沢栄一が中心となって編纂した徳川慶喜の伝記です。
全8巻からなる大著で、完成までには約25年もの歳月がかけられました。
渋沢栄一は若い頃に徳川慶喜に仕え、その後、慶喜の弟である徳川昭武に随行してフランスへ渡りました。
慶喜との出会いは、渋沢栄一の人生を大きく変えるきっかけとなったのです。
そのため『徳川慶喜公伝』は、単なる歴史上の人物を紹介する伝記ではありません。
旧主である徳川慶喜の真意と功績を後世へ正しく伝えようとした、渋沢栄一の恩義と使命感が込められた著作といえます。
徳川慶喜は幕末を代表する英才だった
徳川慶喜は、水戸藩主・徳川斉昭の七男として生まれました。
幼い頃から学問や武芸に励み、優れた能力を持つ人物として将来を期待されていました。
その後、一橋徳川家を継ぎ、将軍後継者の有力候補となります。
当時の日本では、外国船の来航をきっかけとして、幕府の政治体制が大きく揺らいでいました。
外国との関係をどのように築くのか、弱体化した幕府をどのように立て直すのかが大きな課題となっていた時代です。

幕府の近代化を進めた徳川慶喜
第15代将軍となった徳川慶喜は、幕府を立て直すためにさまざまな改革を進めました。
- 能力を重視した人材の登用
- 西洋式軍隊の整備
- 軍制の改革
- 財政制度の見直し
- 行政組織の近代化
徳川慶喜は、古い幕府の仕組みを守るだけではなく、外国の制度や技術を取り入れながら、日本を近代国家へ変えていこうとしていました。
渋沢栄一は『徳川慶喜公伝』の中で、慶喜を単なる「最後の将軍」としてではなく、新しい時代を見据えて改革を進めた政治家として描いています。

大政奉還は日本の未来を考えた決断
1867年、徳川慶喜は政権を朝廷へ返す「大政奉還」を決断しました。
大政奉還は、江戸幕府が政治を行う権利を朝廷へ返上した、明治維新を象徴する出来事のひとつです。
一般的には、幕府が追い詰められた末に政権を手放した出来事として捉えられることもあります。
しかし『徳川慶喜公伝』では、慶喜が日本国内の対立や内戦を避けるため、政治的な判断として大政奉還を選んだことが強調されています。
自らの権力を守ることよりも、日本という国の将来を優先した決断だった。
これが、渋沢栄一が後世へ伝えようとした徳川慶喜の姿でした。

戊辰戦争と慶喜の恭順
大政奉還のあとも、旧幕府側と新政府側の対立は収まりませんでした。
1868年に鳥羽・伏見の戦いが始まり、旧幕府軍は新政府軍に敗れます。
徳川慶喜は江戸へ戻ると、徹底抗戦ではなく、新政府に従う「恭順」の道を選びました。
この決断について、当時は「部下を残して逃げた」「幕府を見捨てた」といった批判もありました。
一方で渋沢栄一は、慶喜が戦争の拡大を避けるために、あえて自ら身を引いたと評価しています。
江戸を大規模な戦火から守った選択
徳川慶喜が恭順の姿勢を示したことは、その後の江戸城無血開城にもつながりました。
新政府軍と旧幕府軍が江戸で全面的に衝突していれば、多くの市民が戦いに巻き込まれ、江戸の町も大きな被害を受けていた可能性があります。
江戸で大規模な市街戦が回避されたことは、次のような結果につながりました。
- 江戸市民の生命と財産が守られた
- 江戸の町や経済基盤が大きく破壊されずに済んだ
- 国内の戦争がさらに拡大する危険を抑えた
- 新しい国家づくりへ早く移行できた
現在の東京につながる江戸の都市機能が保たれたことは、日本の近代化を進めるうえでも重要な意味を持っていました。
徳川慶喜は新しい時代への橋渡し役だった
明治維新は、江戸幕府が終わり、明治政府が始まった出来事として語られます。
そのため、徳川慶喜は「時代に敗れた最後の将軍」として見られることも少なくありません。
しかし『徳川慶喜公伝』を読むと、別の姿が見えてきます。
徳川慶喜は幕府の改革を進め、大政奉還によって政権を朝廷へ返し、さらに戦争の拡大を避けるために政治の表舞台から退きました。
渋沢栄一は、慶喜を江戸時代の終わりを象徴する人物ではなく、江戸から明治へと時代をつないだ橋渡し役として捉えていたのです。
明治維新後の徳川慶喜
明治維新後、徳川慶喜は政治の表舞台へ戻ろうとはしませんでした。
静岡などで暮らしながら、写真や狩猟、自転車、書画などを楽しみ、静かな余生を送りました。
将軍という最高権力者の立場にありながら、失った権力を取り戻そうとしなかった姿について、渋沢栄一は権力に執着しない人格の表れとして評価しています。
これもまた、慶喜が自分の立場よりも、社会の安定を優先した人物であることを示しているといえるでしょう。

渋沢栄一が『徳川慶喜公伝』に込めた思い
渋沢栄一は、徳川慶喜に仕えたことによって人生を大きく切り開きました。
農家の生まれだった栄一が一橋家に仕え、外国へ渡り、明治時代の経済人として活躍するきっかけを得られたのも、慶喜との縁があったからです。
そのため栄一は、世間に広まっていた慶喜への否定的な評価をそのままにしておくことができませんでした。
『徳川慶喜公伝』の編纂には、次のような思いが込められていたと考えられます。
- 徳川慶喜への恩義を形にして残すこと
- 慶喜の政治的な判断を正しく伝えること
- 明治維新を一方的な勝者の歴史にしないこと
- 幕末を生きた人々の証言を後世へ残すこと
渋沢栄一の人生哲学が表れた一冊
『徳川慶喜公伝』には、徳川慶喜の生涯だけでなく、渋沢栄一自身の考え方も色濃く表れています。
特に読み取れるのが、恩義を忘れない姿勢、国全体の利益を考える視点、対立よりも未来を選ぶ考え方です。
渋沢栄一は実業家として、多くの企業や社会事業に関わりました。
その根底には、自分や一部の組織だけが利益を得るのではなく、社会全体が豊かになることを目指す考え方がありました。
徳川慶喜の行動に対する栄一の評価にも、その価値観が反映されているのかもしれません。
近代日本の経済を築いた渋沢栄一
フランスから帰国した渋沢栄一は、明治政府に出仕し、その後は民間の実業界へ進みました。
銀行、鉄道、製紙、保険、教育、福祉など、幅広い分野の企業や社会事業に携わり、日本の近代化を支えました。
徳川慶喜が政治制度の近代化を目指した人物だとすれば、渋沢栄一は経済や社会の仕組みづくりを通して、日本の近代化を実践した人物といえます。
二人の歩んだ道は異なりますが、古い時代から新しい時代へ日本をつなぐ役割を果たしたという点では共通しています。
明治維新を勝者と敗者だけで見ない
明治維新は、薩摩藩や長州藩を中心とする新政府側が勝利し、江戸幕府が敗れた歴史として説明されることがあります。
しかし、実際の歴史は単純な勝者と敗者の関係だけでは捉えきれません。
幕府側にも日本の将来を考えて行動した人々が存在し、新政府側にもさまざまな立場や考え方がありました。
『徳川慶喜公伝』は、明治維新を別の立場から見直すきっかけを与えてくれます。
歴史上の出来事は、誰の視点から見るかによって、その意味や人物の評価が変わります。
渋沢栄一は、自らが体験した幕末と明治維新を、旧幕臣の立場から後世へ伝えようとしたのです。

深谷市出身の渋沢栄一が残した歴史の証言
渋沢栄一は、現在の埼玉県深谷市血洗島に生まれました。
深谷市では、渋沢栄一記念館や旧渋沢邸「中の家」などを通して、その生涯や功績に触れることができます。
深谷市出身の偉人というと、実業家としての功績に注目が集まりがちです。
しかし『徳川慶喜公伝』からは、歴史の記録者としての渋沢栄一の姿も見えてきます。
栄一は近代日本の経済を築いただけではなく、自分が生きた時代の出来事や人々の思いを、未来へ伝える役割も果たしていました。


まとめ
『徳川慶喜公伝』は、江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の生涯をまとめた伝記です。
しかし、その内容は一人の将軍の人生にとどまりません。
大政奉還や戊辰戦争、江戸城無血開城などを通して、明治維新がどのように進み、日本が近代国家へ向かっていったのかを考えることができます。
渋沢栄一が伝えようとしたのは、徳川慶喜が単に時代に敗れた人物ではなく、自らの権力よりも日本の将来を優先し、新しい時代への橋渡しをした政治家だったということです。
深谷市が生んだ渋沢栄一の著書を通して明治維新を読み解くと、教科書だけでは見えにくい、歴史のもうひとつの側面が見えてきます。
渋沢栄一の考え方や日本の近代化に関心がある方は、『徳川慶喜公伝』に触れてみてはいかがでしょうか。











